住環境を劇的に変えた窓ガラスと鉄筋コンクリート住宅/前編

窓ガラスは、採光と断熱性において、
現代の我々の住環境を大きく変えた素材であると言えます。
それまで、屋内の採光は紙や皮に頼っていましたが、それも寒さの厳しい冬になると、
木や板をはめていた為、屋内は暗く、寒い上に、衛生環境も悪かったそうです。

日本でも近代になると、窓ガラスが当たり前となりましたが、
戦前までは、住居とは「雨露をしのぎ、冷たい風から身を守るもの」という次元で、
現代の暖房が効くには、不十分な環境でした。

寒かった昭和の冬

北海道の人口が、特に増加したのは戦後でした。※1
これは、炭鉱の大規模化や農地の開墾の為と、内地では生活がままならない人が多く、
国策として北海道への移住を促進した為です。

昭和期の北海道は寒く、幌加内町の母子里(もしり)では、
気象庁の統計ではないものの、1978年2月17日に-41.2℃を記録しています。
なお、気象庁の統計では同日に旭川市江丹別で-38.1℃を記録しています。

気象庁の統計では、明治期に観測された旭川の-41.0℃以降、
100年以上、-40℃を下回った記録はありません。
ただし、札幌、旭川などの気象官署を除くアメダスは、1976年以降の観測です。

1978年2月の横手アメダスの平均気温は-4.0℃で、観測史上最も寒い2月となりました。
この月は日照時間が1日あたり約4.5時間あり、※2
大規模なラニーニャ現象の発生も見られませんでした。※3
秋田の春の訪れは「光の春」と言われており、晴れているのに真冬日が続くというのは、
なかなかイメージが出来ません。

余談ですが、横手アメダスは横手町のバイパス沿いにあり、
当時の気象条件を持って来ても、アメダス環境の変化、
45年間での海水温の上昇を加味すると、-3℃の壁は厚いかなと思います。

オイルショックと冬の時代

1962年10月、日本は原油の輸入自由化をきっかけとして、
それまで石炭が主流だったエネルギー源が、石油へと入れ替わりました。(エネルギー革命)
この当時、北海道の住環境は非常に寒かったと考えられるものの、
安価な石油を燃やす事で、暖を取っていました。

しかし1970年代にイスラエルとアラブ連合軍による「第四次中東戦争」が始まると、
原油価格が高騰しました。
この時、エネルギー革命から10年余りが過ぎており、
ある意味では、今日に至るまでの50年間の、
「エネルギー依存時代」から脱却する最後のチャンスだったと思いますが、
事実、元の石炭産業に立ち返る事は出来なかったようです。

都市化と住環境

戦後の首都圏や札幌市、夕張市のような炭鉱都市には、
労働人口を吸収する為に、高さ31m以内の中層マンションが相次いで立てられました。

当時は、上下水道を完備し、耐震性・耐火性・断熱性があり、
専門の資格者によってメンテナンスされた、鉄筋コンクリートのマンションは、
非常に先進的で、一種の羨望の対象だったようです。

岩手県の松尾鉱山もまた、窓が鉄格子で塞がれ、物々しい外観のマンションに、
当時の人は抵抗があったそうですが、これまでとは余りに違う先進的な生活に、
「雲上の楽園」と呼ばれるようになりました。

一方、当時の木造戸建て住宅の建築基準は、今では考えられないもので、
それが今から話す「ナミダタケ事件」となります。

出典

※1
【更新】北海道人口ビジョン(改訂版)のオープンデータ

※2
秋田市における2024年2月の日長(日の出~日没の時間)は、
10時間10分8秒から11時間16分56秒となり、1日あたり約2.4分長くなります。
秋田市における年日照時間を365分の1すると、1日あたり平均約4.2時間となり、
日長時間の2/3近くが雨や雪、曇りとなっています。

※3
Wikipedia「猛暑」

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