定住地に縛られないで、移動しながら暮らしたいと思ったことはありませんか?
こういう暮らし方をノマドといいます。
多くの人が憧れるノマドライフを、200年前に実践した人が日本にいました。
江戸時代後期に、東北・北海道を旅して、数多くの紀行文を遺した菅江真澄という人物です。
三河を出発した菅江真澄は、信州から新潟、東北6県を巡り、北海道を折り返して、ふたたび秋田へ戻ってきました。
生涯の半分以上が旅で、今でいうノマドワーカーと言えます。

ムーミンに出てくるスナフキンみたいだね。
定職につかない危ないおじさんともいう。

菅江真澄が歩いたルートはこちらの記事
菅江真澄の人間味あふれる高松日記はこちらの記事
蝦夷地から帰った菅江真澄は秋田に住み続けました。
なぜ、秋田の人々はよそ者である真澄を快く受け入れたのでしょうか。
そして、なぜ真澄は旅することを辞め秋田に住み続けたのでしょうか。
その謎を、時代背景をもとに紐解きます。
初めて秋田入りした時、真澄が日記に記したこと
真澄の秋田の旅は、日本海側のにかほ市から始まります。
天明4年、真澄31歳 9/25 (新暦11/7) 山形県遊佐町
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秋田県にかほ市三崎坂

11月から秋田に入る計画は、考えが甘いですね。
雪の怖さをまだ知らなかったんでしょう。

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由利本荘市鳥海町伏見 10/10 (新暦11/22)
雪に道を阻まれて鳥海町伏見に4泊しました。
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雪が降る峠を越えて
羽後町西馬音内に到着 10/18 (新暦11/30)

ここでも雪のために進路を阻まれ、しばらく滞在しました。
紀行文『あきたのかりね』には、こう書かれています。
「この三日四日、この宿にいる間大雪が降り、吹雪でどこへもいけなかった。」
真澄は、内心とんでもないところに来てしまったと思ったかもしれません。
「今日まちに行くためと言って、雪俵、俵くつというものを人ごとに作り、その中に足を入れて、俵の袴を着る。」
秋田の方言で、市街地に買い物に行くことを「まちさ行く」と言います。
真澄は、雪がやんだ際に、雪俵をはく経験をしたことを日記に書いています。

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湯沢市柳田の里に入ったのは年末
雪の中、湯沢にたどり着いた真澄は、柳田で出会ったある老人の申し出を受け、翌年の春までこの家に滞在することにしました。
「草薙なにがしという情けある翁に宿乞えば、雪消しなんまでここにあれなど、ねごろに言いてけるを 頼みて、けふは暮れたり。」
草薙なんとかという情けあるじいさんに泊めてくださいとお願いしたところ、「雪が消えるまでここに居れば?」と、親しげに言ってくれるのでそのように頼んだ。それで今日は日が暮れた。
真澄は、優しい草薙じいさんのもとでしばらく暮らしました。

真澄が雄勝郡の子どもたちの様子を記述している中に、かまくらが登場します。
「屋より高く雪を積んで、大きな穴を掘り、その中で笹のともし火を焚いて、色んな話をする「かまくら」で遊んでいる。
夜になって「きどころ寝」(服を着たままのうたた寝)をし、親に「せやみ起きろ、風をひくぞ」と叱られている。(せやみ=怠け者)」
真澄は、しばらくはここを拠点として雄勝郡内のさまざまな名所・旧跡を訪ね歩きました。
それが『小野のふるさと』という名の書物です。
同時代、東北を旅していた古松軒と真澄
真澄は、旅の目的地である蝦夷地(北海道)行きを、大飢饉のためにいったん取りやめます。
その3年後、真澄 35歳でふたたび蝦夷地を目指す道の途中のことでした。
岩手県北部の渋民村(玉山村)と沼宮内(岩手町)を通りかかると、大勢の村人が道や橋を作っている場面に出会いました。
幕府の巡見使(※)が近いうちにこの村を通るので、藩役人の指揮でその準備に追われているのだといいます。
石を削り、草を刈り、張り出した木を伐採し、鋤や鍬を手に、竹であんだ籠にせっせと土をかき入れて運んでいました。
真澄はその様子をこう記しています。
「よく見ると彼らの額にさまざまな文字が書いてあり、人改めのしるしである。それが汗に流れてますます顔が黒く見え、まことに暑そうである。」

時は天明7年の7月、真夏の暑い日でした。
道や橋の土木工事に駆り出され汗している人たちの様子が書かれています。
額に書かれた文字は囚人のしるしと、細かいところまで具体的な描写です。
汗で文字が流れ日焼けした顔がますます黒く見え、本当に暑そうだと書いた真澄の優しさもにじみ出ています。
幕府の巡見使のお通りは地域住民にとっては負担
ここで、このときの時代背景を説明します。
※江戸時代、将軍が代わるたびに、幕府は巡見使(じゅんけんし)を各地に派遣して藩の政治や民の様子を視察しました。
迎え入れる側の藩は、粗相のないように接待に大変気を使ったそうです。
また、道路整備や食事の世話などは、住民にとって大きな負担でした。
真澄が日記に書いた2か月後に同じ渋民村を通った古松軒
真澄が見た渋民村を2か月後に通ったのは、蝦夷地の視察を終えて江戸へ帰る途中の幕府高官の巡見使一行でした。
その一行の中に、巡見使に随行して蝦夷と東北の紀行文『東遊雑記』を書いた古川古松軒という地理学者がいました。
古松軒はその著書の中で、「 朝、沼宮内を出発、三里半で渋民村、四里で盛岡に到着し宿泊。」と記しています。

地理学者らしい視点で「奥羽二国(出羽と陸奥)は国内の3分の1の広さを持つが、山や原のみで人口はいたって少ない。信頼できる地図はない。」と嘆いています。
「九州を旅した時、辺ぴの下国に驚いたが、人間は鈍感ではなかった。南部領のこの地では下々の人はいやしいのみならず、愚鈍である。昔は蝦夷と称したが、現在も蝦夷とそれほど変わっていない。中より以上の人も今のようだったのだろう。」
「折り詰めをもらって、これはご馳走だから食べる時まで蓋をとるなと言われた。どんなご馳走かといろいろ想像し楽しみにしていた。食べるときになって蓋を取ったら、なんとドジョウだった。」
オーマイガッ!上から目線で東北を見下した書き方をしています。
大飢饉直後の東北で、貴重なたんぱく源であるドジョウを、地元住民は必死に集めたことでしょう。
それを批判したり上から目線で馬鹿にしたりしている文章は、東北に生きているわたしから見ると面白くありません。
秋田藩久保田城下についても、古松軒はこう述べています。
「亀田藩(由利本荘市)と比較しても、草葦きの家が多い。」
「言語は理解しがたい、人物はいやしい。」
確かに降雪量の違いで、秋田に瓦屋根の家が少ないのは事実ですが、書き方にカチンと来るのはわたしだけでしょうか。

ぼくも同じく!先輩こんなの許しちゃダメですよ。
蝦夷地から帰った真澄、35年後に古松軒を批判
岩手県渋民村を古松軒の2か月前に通っていた真澄が、古松軒の書いた「東遊雑記」について
自分の考えを述べたのは、35年後でした。
69歳になった真澄はめずらしく批判的な文章でこう書いています。
「何か心にかなはぬ事ありしにや。さりけど、ふみは千歳に残るもの也。心にかなはぬとて、いかりのまにまに筆にしたがふものかは。」
(何か納得できないことでもあったのだろうか。そうだとしても、文章は長年に渡り未来まで残るものだ。納得いかないと言って、怒りの感情のまま書いてしまうのはいかがなものか。)

真澄が秋田に初めて入ったころは、藩の命令もなく幕府の使いでもない、ただの旅人でした。
そんな真澄に宿を貸してくれて、雪解けまで家に居ろと滞在までさせてくれた秋田の人々を、公の巡見使に随行していた者に、こうも蔑んだ書き方をされるのは我慢ならなかったのでしょう。
この文章を書いたとき、すでに古松軒はこの世にいなかったのですが・・・

スカッとしますね。よくぞ言ってくれた!
批判する相手が亡くなってから言ってる点が、真澄の気遣いだね。

菅江真澄はよそ者じゃなくなっていた
秋田の人にとって、真澄はどう映っていたのでしょう。
秋田県民は閉鎖的でよそ者を嫌うと思われがちですが、心をいったん許すととことん仲良くなって世話好きな面もあります。

犬みたいな県民性だなぁ。
忠犬ハチ公は秋田犬だしね。

秋田県の由利本荘市から羽後町・湯沢市のルートは、昔から旅人のルートで多くの旅人が通り、よそ者と地元住民がふれあうことが多かったエリアです。
これが1つ目のなぜ、の答えです。
真澄が秋田の人に受け入れられたのは、湯沢周辺は旅人が多いエリアだったという地理的要因と、忠犬ハチ公のような県民性にあります。
次に2つ目のなぜ、真澄はなぜ秋田に住み続けたか、の答えは・・・
真澄が32歳のとき、羽後町や湯沢市柳田で大雪から助けてもらった体験は、その後の人生を大きく変えたと言えます。
草薙じいさんと寝食を共にし、聞きなれない言葉を覚えて、地元住民と心がふれ合った体験が、ずっと記憶に残って忘れられなかったのではないでしょうか。

長いノマドライフを送った真澄の晩年は、秋田藩内をノマドしていただけでした。
76歳、秋田を愛し秋田に愛された真澄は、田沢湖付近で病のため亡くなります。
秋田住民にとって菅江真澄は、もうよそ者ではありませんでした。
菅江真澄は、秋田の人として生涯の幕を閉じたのです。
菅江真澄の記事を書き終えて
真澄が遺した書物は、旅の初めの時期30代に大望に燃えた若々しいひとみで綴った日記「あきたのかりね」、「小野のふるさと」などがあります。
そして、長い旅路を経て老年期を迎えた真澄が、人生の集大成として書いた「高松日記」、「久保田の落穂」、「雪の出羽路」、そして未完に終わった「月の出羽路」などが有名です。

これらの書物は、ここ、秋田に生きる私たちの先祖の生き様を知るうえで、貴重な道しるべになっています。
また、将来においてもかけがえのない財産なのです。
長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。