菅江真澄を知っていますか?
菅江真澄は、みらいワークが新しくはじめた連載記事『めっけだ!~秋田のすごい人~』で言うならば、元祖すごい人です。
菅江真澄①はこちら⇩
菅江真澄の数ある書物の中でも、高松日記は描写が細かく、まるでその場に一緒にいるような気分になる紀行文です。
では、高松日記をねこへらアイスと一緒に辿ってみましょう。
車で行くんですね。
愚か者!江戸時代にそんなものはない。ひたすら歩くのじゃ。
時は江戸時代後期、文化11年(1814年)、雄勝郡(現在の湯沢市皆瀬地域)の旅のスタートです。
菅江真澄の高松日記ルート
原文のままでは読みにくいので現代文に訳して紹介します。
「曾我吉右衛門なる翁、年齢は七十で男子二人、孫七人、曾孫三人もいるが、老いたる様子もなく丈夫な振る舞いである。 この曾我の翁を案内に頼んでこの村より山路に入った。」
曽我の翁(じいさん)70歳の案内で山道に入ったと書いてあります。老いたる様子もなくと褒めていますが、真澄もこの時60歳ですから、江戸時代としては立派なシルバー世代です。
では、Googleマップで上空から高松日記のルートを見てみましょう。
健脚な現代人が歩いて7時間20分コースです。
さて、菅江真澄と曽我のじいさんペアは何時間でゴールできたのでしょう。
紅葉の美しさに目を奪われちっとも進まない
季節は秋、紅葉の美しい季節です。
「大森山を見て、種苗池の沢という山道を登り、沼などを左に見た。仁左衛門沢という所では、紅葉が赤く染まり朝日に輝いているので目が離せず、ついつい歩みを止めてちっとも進まなかった。」
「中山という所から道は分岐し、下って行くと高松の荘である。」
高松の荘をスタート地点に、泥湯温泉を目指して山登りルートを行きます。
「南西に向かって山を一つ越えれば、紅葉がたいそう面白い。」
では、実際に湯沢市皆瀬地区の美しい紅葉を動画でどうぞ
紅葉の中 雪がまだらで錦を着飾っているようだ
ここからは、Googleストリートビューで解説します。
この地区で紅葉が楽しめる季節は、山のほうでは雪が降っています。峠道は寒くて大変だったことでしょう。
「麓に村があって坊澤と言う。昔坊主の跡だそうだ。傍に山神、稲荷が神座している。」
「三津川村に来てある家で休んだ。外に出れば、前森山、雷の倉など名のある山々が高い。」
「阿弥陀(あみだ)の浄土という名の場所を登って中野津というところを分け歩くと、雪はまだらに消えており、紅葉した木々の枝がそこかしこにあらわれた。」
「立派な錦を着飾っているようだと見ていると、剣の山という岩山が見えた。」
巨大な炎と雷が落ちたよう 山全体が鳴り響く川原毛温泉地獄
川原毛温泉地獄まで来ました。
「道の左右では、“つるはし”というものを使って硫黄を掘っていた。」
「賽の川原という所を通り過ぎて、剣の山の背後と思われる場所に“大釜”という所がある。」
「そこでは雷が落ちるかのごとく山全体が鳴り響き、巨大な炎が白く高く燃え上がって雲となり、
ふもとで霧のように立ち込めて山道は視界が悪く、硫黄が燃える音はまさに雷鳴そのものであり、
なんとも恐ろしい所である。」
「八幡地獄と言って、火井二つあって高く燃え上がる。その火の色白く、風に鳴り響いて冷たく恐ろしい。 」
菅江真澄は噴気の様子を、「白い炎が高々と燃え上がる」と表現しています。
「硫黄はみごとな鷹の目にも似ており、肥前の国の阿蘇山から産出するものにも劣らないのではないか。」
黄色い硫黄結晶のことを「鷹の目」と呼ぶそうです。
「少し昔のことだが、この山は硫黄の大火に焼かれたことで土が真っ白になり……」
川原毛地獄の地面が真っ白な理由について、菅江真澄は「硫黄の火に焼かれた」からだと書いています。
「谷川にかけ渡した丸木橋を危うく踏んで、川原毛の温泉に至る九曲の山道を下れば、高さ十七、八丈ばかりと思われる湯の滝が落ちていた。」
「病人はみな「螻蓑(けらみの)」というものを着て、編笠のようなもので頭を覆って、この滝に身を打たせている。
このようなものを着なければ、小石が落ちてきて体を打ち、砕くような心地がすると言う。」
小石が落ちてきて体を打ち砕く心地って相当痛いんだね。
僕はごめんなさいします。
「屏風石、染屋の地獄、ばくろうの地獄など、地獄を巡り巡って、地獄の山中も日が暮れた。 石硫黄を掘る小屋が軒を並べている。その長の家で一夜を乞い泊まった。」
川原毛地獄の硫黄を掘る小屋のひとつに泊まったとあります。
初日で相当疲れたことでしょう。
泥湯温泉で泥のように眠った
「宿を出て、噴音轟く大釜を通り、苗代澤、荒川と進んで泥湯の温泉に着いた。」
翌朝、硫黄採掘の小屋から出て、大釜~苗代沢~荒川~泥湯温泉まで来ましたが、
「昨日の雪が融けて、傘も衣も濡れて重たくて歩くこともできないので、曽我のじいさんを呼んだ。
ところが、曽我のじいさんも疲れ果てている。まるで、蓑も笠も紅葉が散りかかっている様子だ。」
自分は疲れてもう歩けないから、曽我のじいさんを呼んだのに、じいさんもくたくたに疲れて休んでいるではないか。じいさんの蓑にも笠にも昨日散った紅葉が張り付いていて、まるで散りかかってるように見える。
この表現は。伝わりますね。
泥湯でいったん休憩して、ほっとできたでしょうね。
桁倉沼と苔沼、田螺沼
「市籠澤、桂澤と言う小流れを行って菅野に出た。
右に桁倉という湖水がある。」
「西には苔(こけ)沼と言う大きな沼があり、水は枯れて野原のように見える。しかしところどころのくぼ地に水が残っている。これも子安に流れ出る池だ。」
「丘一つ越えて下ればまた田螺沼という湖水がある。桁倉の湖より水の色が緑で、深さは計り知れない。」
上新田村で民家に一泊、足が痛くてさらに一泊
「日も傾く頃、上新田村に着いた。本当は兜野新田と言う村らしい。清水が澤という地の杉群に山の神がある。」
「家はただ三軒、そこらにある普通の山里だ。日が暮れて、藤原藤八と言う家に宿を借りた。」
「翌朝、足が痛み、また休んだ。」
「村ではキノコを沢山乾燥させていて、それを汁もの、漬けて鮨とし、香りものとして朝夕ご飯に人に勧められた。そういうことで、今日もここで日が暮れた。」
よほど疲れて、足が痛かったんですね。
板戸村にゴール
「朝山の鳥の声で起きた。兜野を立って兜岩山の麓を通り、子安へと東へ曲がりくねりながら下る。
山の陰に袖野澤(外野澤)という所があって、家二軒あったが、昨年の野火で焼けたそうだ。」
「こうして、若畑村に入って桜坂を越え、坂戸村三浦氏のもとに着いて日が暮れた。」
高松村→三津川→川原毛温泉→泥湯温泉→桁倉沼→上新田村→若畑→桜坂→板戸村。
菅江真澄、還暦60歳で休憩しながら4日間かけて通った峠道でした。
お疲れ様でした。ゴールです。
おまけ:真澄の足跡は『雪の出羽路 雄勝郡』にも
菅江真澄が描いたものはなにも景勝地だけではありません。
普通の民家に泊まってなにげない日常を書き、絵も描いています。
高松日記は湯沢市が舞台です。
実は、高松日記のほかにも、数ある紀行文の中で湯沢市を廻ったものは非常に多いのです。
ずばりそのまま、湯澤と書かれたこの絵をご覧ください。
有名な稲庭うどんにも言及しています。
どなたでも いなにはあらぬ このうどん
「いなには」という言葉からは、古今和歌集
「最上川のぼればくだる稲舟の いなにはあらず この月ばかり」という歌を連想させます。
おそらく真澄はこの歌を知っていたでしょう。
いなや ・・・ いやだ (否や:感動詞)
誰が食べても、いやだとはならない このうどん
古今和歌集の歌を知ってて詠んだとすれば、
想い人をもう想ってない、なんて強がりは言えなくなるよ、このうどん
ですかね。
歌を詠むのもうまいんだなぁ。稲庭うどんもうまいし。ズルズル・・・
菅江真澄は、正月の寒い時期は久保田城下のお寺で歌会に明け暮れていたという記録が残ってるから、
歌詠みも好きだったんだね。もぐもぐ・・・
次回予告
この記事では、菅江真澄の高松日記から真澄の目に映った湯沢市皆瀬地区を案内しました。
次回は最終章、菅江真澄の人柄にせまる記事をお届けします。お楽しみに!
最終章はこちら ⇩