今回はいつにもなく真面目な記事です。
学術論文とまではいきませんが、江戸時代のすごい人を紹介します。
と言うのも、みらいワークでは、新しいコンテンツ「めっけだ!~秋田のすごい人~」をスタートしました。
秋田で頑張っているすごい人を紹介し、秋田のすばらしさを身近に感じてもらおうというコーナーです。
そこで、元祖秋田のすごい人というテーマで『菅江真澄』をご紹介します。
江戸時代に、『菅江真澄』という人がいたのをご存じですか?
『菅江真澄』は、元祖~秋田のすごい人~と、言ってもいい人なんです。
菅江真澄って何?おいしいの?
すがえますみという人です。
菅江真澄は、江戸時代後期の人で東北から北海道まで旅しながら、多くの紀行文を遺した人よ。
どこがすごいの?
いろんな学問に秀でた人で、当時の日記や紀行文が約140冊も遺っているの。
そのほとんどは秋田県立博物館に保管され国の重要文化財に指定されているよ。
へー、でも何故そんなすごい人が書いた本が秋田に?
それを語ると深いのよ。
この記事でわかること
✅菅江真澄が歩いたルートを日本地図で見る
✅旅人 菅江真澄が秋田に住み続けた理由
✅菅江真澄が生涯を閉じるまで巡った場所
✅菅江真澄の著書の多くが秋田に残っている理由
菅江真澄が歩いたルート
三河から蝦夷地を目指して旅に出る
菅江真澄は三河国生まれ(愛知県)。
出身地は岡崎市とも豊橋市とも言われていますがはっきりしていません。
岡崎城下のお寺に稚児に出され、国学、本草学、写生などを学びました。
①30歳で、郷里を旅立ち蝦夷地(北海道)を目指して、信濃(長野)に入ります。
②31歳で信濃から越後(新潟)へ
③越後から出羽の国(山形県・秋田県)へ入ります。由利本荘から湯沢を経て秋田市に入りました。
おそらく、昭和に走っていた電車「横荘線」「旧雄勝線」が昔から旅人のルートだったと思われます。
最初の秋田滞在は1年間です。
④32歳で出羽から陸奥の国・弘前藩に入り蝦夷地を目指そうとします。
ところが時は天明の大飢饉。大勢の人が蝦夷地から本土へと逃げてきている状況でした。下北で、多くの遺体が山積みされている光景を目にして、菅江真澄は蝦夷地行きをあきらめざるを得ませんでした。
⑤陸奥の国(青森県・岩手県・宮城県・福島県)では、盛岡藩・仙台藩へと南下しました。ここでは3年滞在しています。
⑥35歳。念願の蝦夷地へと渡りました。松前領を旅すること4年間。アイヌの文化に触れ細かく描写して記録に残しています。
蝦夷地から本土に帰ってきて軟禁される
⑦39歳。本土へ帰ってきました。下北(南部領)を廻って
⑧弘前藩では薬御用を務めていましたが、行動不審を問われてしまいます。
42歳の時、日記や紀行文を押収され軟禁されたと言われています。
⑨48歳。軟禁から解かれて、出羽国久保田藩(秋田)に移住しました。
ただし移住とは言っても、家を持たずに久保田藩(秋田)を旅していました。。
弘前藩での軟禁が解けた後、郷里の三河に戻らなかったのはなぜでしょう。
もしかしたら、本当は来た道を逆に辿って三河へ帰ろうとしたのかもしれません。
謎を解く鍵は久保田藩です。ここで菅江真澄の人生を決定づけた出会いがあったのです。
旅人 菅江真澄が秋田に住み続けた理由
それが、久保田藩主 佐竹義知との出会いです。
現在の秋田県知事 佐竹さんに似てるね。
佐竹知事は殿と呼ばれているしね。
佐竹義知は、菅江真澄に目をとめ久保田藩の地誌作成を命じます。
その時真澄は、58歳。
当時としては晩年の域に入ってから、菅江真澄は久保田城下に住み秋田県内各地を巡りたくさんの地誌を残しました。
ところが、61歳の時、雄勝郡湯沢市の泥湯温泉を目指して歩いていたころ、藩主 佐竹義知が急死してしまいます。
藩主 佐竹義知が死去したのは、真澄が雄勝郡を旅行中か、旅行後か定かではありません。
その時、佐竹義知に命ぜられて訪ねた雄勝郡湯沢市の紀行文は、高松日記という題名でまとめられています。
真澄は、それまで作成した地誌を久保田藩にいったん収めた後も、さらに旅は続けるのです。
菅江真澄が生涯を閉じるまで巡った秋田県内
64歳。北秋田市で地表に現れた埋没家屋の絵や器などを写生しています。『菅江真澄翁画』
65歳。秋田市内に入り、土崎・寺内・山王を巡って、大潟村へ行きました。『おがたのつと』
67歳。五城目町付近の山村を巡り上小阿仁村を目指しました。雪に埋もれた上小阿仁村の絵が残っています。『雪の山越え』
68歳。大館市を出発し、沢尻から鹿角市花輪に着いた日記があります。『上津野ノ花』
69歳。久保田藩のことを記した「久保田の落穂」で、めずらしく感情的な文を残しています。
これについて、詳しくは『菅江真澄③最終章』で解説しました。
71歳。大森町の大友家を拠点として、平鹿地区の地誌をまとめます。
73歳。『雪の出和路 平鹿郡』完成。その後は、仙北地区を旅します。
76歳。『月の出羽路 仙北郡』を執筆途中、田沢湖で病に伏し生涯を閉じました。
菅江真澄の著書の多くは秋田に残っている
菅江真澄の著書は各地のお寺や旧家に残っていますが、そのほとんどは秋田県内の2か所にあります。
① 秋田県立博物館
菅江真澄の著書の多くが、保存状態良く残っているのは、藩主 佐竹義知の影響が大きいです。
真澄が存命中に藩に収めた著書は、時代が変わり久保田藩の後に秋田藩の藩学校「明徳館」に収められました。
明治になって明徳館の本は佐竹家に移管されました。
昭和に入ってから、菅江真澄遊覧記 89冊は、佐竹家から秋田県立博物館に寄贈され、
平成3年に国の重要文化財に指定されました。
② 大館市栗盛記念図書館
真澄没後、書斎に残された著書は、墓碑建立に協力した人に形見分けされました。
明治期に旧久保田藩主によって収集されましたが、
現在、大館市栗盛記念図書館蔵になっている著書は46冊あります。
これは秋田県有形文化財に指定されています。
次回予告
次回は・・・・・
菅江真澄の紀行文にはどんなことが書いてあったのか、高松日記を深堀します。
他のまじめな地誌とは違って、菅江真澄の素直な人間像が垣間見れる著書です。お楽しみに!
高松日記はこちら⇩
多少退屈でも、寝るな!
はっ!ウトウトしていました。