1973年、アメリカオレゴン州リード大学を、わずか半年で中退した男がいました。
男は大学中退後、寮の部屋もなく友人の部屋で寝起きし、その後も大学キャンパスに潜り込み、コーラの空き瓶を拾って5セントをかき集めたり、電子機器の修理をしたりして食いつないでいました。
それでも中退を決めたことで、退屈な授業を受ける必要がなくなり、もぐりで興味ある授業だけ内緒で受けていました。
その男の名をあなたは知っています。
「Thinking Different(発想を変える)」
このキャッチコピーを掲げ、テクノロジーで世界の先駆者となった男の物語は、きっとあなたの感情を突き動かすでしょう。
生い立ち
男の生い立ちは複雑でした。
未婚の大学院生だった母は、シリア人でイスラム教徒の父との結婚を家族に反対され一緒になることができませんでした。
おなかの子は生まれたらすぐに養子に出すと決められました。
「産んだらきちんと大学院を出た人に引き取ってほしい。」
彼女はそう考え、ある弁護士夫婦に養子縁組することが決まっていました。
ところが、生まれてきたのは、男の子だとわかると先方は、
「女の子が欲しかったのよ。男の子はいらないわ。」
養子縁組は白紙に戻ってしまったのでした。
急きょ別の引き取り先を探すことになり、新しく紹介された夫婦が名乗り出ましたが、彼女は養子縁組の書類にサインするのを拒みました。
なぜなら、新しく母になる人は大卒ではないし、父になる人にいたっては高校も出てなかったからです。
若い夫婦は、「生まれてきた男の子を必ず大学に行かせます。」と、約束して、彼女は数か月後にやっとサインに応じたのです。
「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた。」
これが、男が大学を中退した理由です。
「ラブ&ピース」に影響を受けた時代
時は1970年代。ヒッピー・ムーブメントが流行っていたころの時代です。
「ラブ&ピース」を提唱し、自然を愛し、人間として自由に生きるスタイルを選んだ若者たちが世界中にあふれていました。
1974年、19歳になった男は、精神的導師を求めてインドを旅したいと思いました。
旅費を捻出するために、働くことを決めた男は実家に戻り、その日のうちにゲーム会社「アタリ」を訪ねました。
「雇ってくれるまで帰らない。」
強引にアタリの社長を引っ張り出し、最終的に社長に気に入られた男は、下級エンジニアとして働くことになりました。
入社後、男は風呂に入らず長髪でサンダルあるいは裸足で歩き回っていたため、同僚の大半からは「失礼な奴」に見えていたそうです。
男はその後退社してインドへ向かいました。
しかし、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望して帰国することになるのです。
タイム誌の表紙を飾る若き起業家
1976年、21歳の頃、自宅のガレージで友人と作ったコンピューターを販売するために、男は起業します。
その友人は、男がヒューレットパッカードでアルバイトしていた時の社員で、スティーブ・ウォズニアックといいます。
起業した社名は、アップル社。
おわかりいただいている通り、これは挑戦し続けたテックの先駆者スティーブジョブズの物語です。
アップルはパーソナル・コンピューター(パソコン)という概念を世界に広め、シリコンバレーを代表する企業に大成長しました。
1980年、スティーブジョブズは25歳で2億5600ドルの個人資産を手にし、
1982年「タイム誌」の表紙を飾る若き起業家になりました。
その後、先進的マウスを持つコンピューター「Macintosh」を発表し・・・・
え?昔のコンピューターはマウスがなかったの?
そう。1周回って、今のコンピューターも、マウスいらないけどね。
それまで操作のためのコマンドを覚えて打ち込まなくてはいけなかった部分が、マウスでメニューを選んでクリックすれば作業を進められるようになっていました。
世界は大絶賛し、売れ行きも好調でした。
ところが、数か月でアップル社は深刻な販売不振に陥ります。
大きく需要と供給を見誤り、大量の在庫を抱えてしまいました。
その結果、社内でのジョブズの地位も危うくなり、役員会議で彼に辞任を求める声があがったのです。
自分が創業した会社を解雇されて
30歳ですべての業務から解任されアップルを去りましたが、転んでもただでは起きないのがスティーブジョブズです。
アップル退職後、ジョブズはルーカスフィルムのコンピューター・アニメーションを買収し、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立しました。
ジョブズの目的は、CG制作用の専用コンピューターを売るためです。
その顧客のひとつにディズニー・アニメーション・スタジオがありました。
また一方では、新しく創立したNeXT Computerという会社で、新しい技術開発を指揮していました。
「当時はわからなかったが、アップル社に解雇されたことは、わたしの人生で起こった最良の出来事だったと後にわかった。
成功者であることの重さが、再び創始者になることの身軽さに置きかわったのた。
何事につけても不確実さは増したが、わたしは解放され人生の中で最も創造的な時間を迎えた。」
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)
1995年、ジョブズ40歳。
ピクサーとディズニーとの共同制作、世界初の長編CGアニメ映画「トイ・ストーリー」は大ヒットしました。
復帰してから奇跡的な快進撃
1996年41歳、業績不振に陥っていたアップルに、ジョブズは新しく創業したNeXT Computerを売却すると同時にアップルに復帰しました。
翌年に暫定的なCEOになり、ライバルであるマイクロソフトとの提携と支援を得ることにも成功しました。
1998年、iMac登場。
2000年、ジョブズは正式にアップルのCEOに就任しました。
ここから、NeXTの技術を基盤にしたMacOSへと切り替えて、アップルの躍進劇が続きます。
2001年、iTuneとiPodを発表。
アップルに復帰し、これから物事が順風満帆に行くと誰もが信じていた2003年、ジョブズにすい臓がんが見つかります。
運よく手術すれば治るタイプのがんだったのですが、ジョブズは手術を拒みました。
のちにジョブズはこのことを後悔しています。
誤解のないように追記しますが、ジョブズは手術しないでがんで亡くなったのではなく、最終的には手術を受けて自分の残りの人生をまっとうしました。
死の直前になって、「もっと早く手術しておけばよかった。」と後悔したということです。
2007年iPhoneを発表。
2010年iPadを発表。
ただのコンピューター制作会社だったアップル社は、パソコンからデジタル家電とメディア配信事業まで手掛ける世界的なテック企業に大成長しました。
スタンフォード大学卒業式スピーチで
すい臓がんが見つかった後でもスティーブジョブズの活動は止まりません。
2005年6月、名門スタンフォード大学の卒業式で、スピーチをします。
そこでは、若者に向けてメッセージを贈るとともに、自分の人生を振り返りやがて迎える死について語っています。
今でも映画や動画で語りつがれる有名ですばらしいスピーチでした。
2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表。
享年56歳でした。
最後に、そのスピーチから3つの名言を紹介して、この物語は終わりにします。
「もし、今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか。」
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)
「あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。
常識にとらわれるな。それは他人が考えた結果で生きていることだから。
他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりしないようにしなさい。
そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。
それは、どういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。
それ以外のことは全部二の次でしかない。」
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)
「Stay Hungry. Stay Foolish.」
(ハングリーであれ、愚か者であれ)
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)